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『魔弾の射手』
『魔弾の射手 序章』
―――故郷だ!もう少しで還れる。一体何年ぶりだろう。青い塊。それは我が海!
その存在は、真空を飛んでいた。
その時、人類は、この空間はおろか、大気圏すら征服できずにいた。
しかし、その存在は、そんなことは無関係のように、すいすいと飛んでいく。
実は彼は悪魔なのだ。悪魔に性別などないのだがら、彼という主語は適当でないかもしれない。しかし、便宜上、彼ということにしておく。
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『魔弾の射手 1』
ザミエルは、まったくでたらめに、その青い塊に突入した。地上の何処に着陸するかは、すべて運次第である。生まれ故郷に、着弾するのか、別の大地で、別の我が子に出会うのか。
――――すべてはサイコロの目しだい!
「うん、ここは生まれ故郷に近いか」
ザミエルは、感覚でそれを理解した。
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『魔弾の射手 2』
「ら、来月に侯爵閣下の御前で、射撃大会が行われるの ――――」
「オットガール侯爵か」
アガーテは驚いた顔をした。
「ああ、ジギスムント3世の治世だな。今から8代前の先祖にあたる。――――今のルードヴィッヒには、あいにくと面識がないが、もちろん、今すぐにでもそんな関係は今すぐにでも構築できる」
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『魔弾の射手 3』
「カスパール、あなたはそれでいいの?」
「ぼ、僕は、あなたに強要はできない。あなたを助けたのは、僕の意思 ―――――――」
アガーテは、カスパールの言葉をみなまで言わせなかった。
背の高い彼の口を塞ぐには、少女は背が低すぎた。足首が痛い。
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『魔弾の射手4』
明くる朝、教会に行く途中、見慣れない情景に出会った。銃を下げたカスパールに出会ったのである。彼はいつもと違って、意気揚々としていた。右手には、見慣れないものを下げていた。
「あれ?こんなに朝早くから森に行ってたの?」
「うん、そうだよ、試したくてね」
「え?何を!?」
「い、いやあ、新しい銃の様子をね ―――――」
カスパールは必死に、狼狽を隠そうとした。元来、器用な人間ではない。自分をごまかすことは得意じゃない。
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『魔弾の射手5』
―――血族の禁句を破りしとき、国やぶれる。
薄暗い空間に、美声が、朗々と響く。その声は、液体のように壁や彫刻の凹凸の隅々まで、流れ込んでいく。
「吟遊詩人、見事なものだ? ハイラインだったな」
「御意!」
「なかなか、良い声をしている」
「もったいなき仰せにございます」
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『魔弾の射手6』
「どうしたの? マックス? 何処かヘンよ」
アガーテが、急に狼狽した親友に駆け寄った。カスパールも続く。彼の長髪が、鼻に掛かる。女とみまごうばかりの美貌が、目の前にある。急に、この白い顔が憎くてたまらなくなった。誰よりも信頼してきた親友のはずなのに、この感情は一体、何なのだろう。
「何でもない!」
マックスは、小川に向き直ると、振り絞るように言った。夏でもないのに、汗が滲んでくる。
「ここは、戦場になるかもしれないな―――――――」
「え?」
「どういうことだ?マックス?」
「いや、そう思っただけだ」
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『魔弾の射手7』
そのころ、アドルフ、アルフレート両大臣は、城の回廊を主塔に向かって歩いていた。侯爵に呼ばれているのだ。
「アドルフ殿はピエール3世をご存じと、お伺いしましたが ―――――」
「ああ、あれほど狡猾な男は見たことがない、フランス人は、ずるがしこさにかけては、子犬まで、心が汚れておる。しかし、そんな、フランス人の中でも、やつは、ずば抜けておったな。若いころから知っているが、顔を皺を得て、どれほど変化しておるか」
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アガーテとマックスは、林檎の木の下で、日陰を楽しんでいた。零れてくる陽光を使って、パッチワークを二人で作っている。俗に、人はそれを愛というのだろう。たぶん、傍からみればそのように見えたにちがいない。
『魔弾の射手8』
この国の支配階級たちが、二人を巡って、権謀術数の限りを尽くしている。いつの間にか、じぶんたちが、台風の目にされているなどと、夢にも思っていないだろう。
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『魔弾の射手 9』
エンフェンがいうところの殿様とは、アドルフ大臣のことである。しかし、マックスが聞き耳を立てたのは、殿様という単語ではなくて、本という言葉だった。アガーテは不思議に思った。マックスはその出身にもかかわらず、例外的に文字が読めるが、それほど本好きというわけではない。
そもそも、本自体がかなりの高価な品であるこの時代、たしかに興味を示すは当然のことだ。だが、富とか名誉とかに、それほど興味を示す人間ではないはずだ。少なくとも、アガーテの知っている限り、そのようなことはなかった。
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『魔弾の射手 10』
一方、カスパールは、マックスが旅立ったことを、アガーテから聞いて、驚いていた。
「それは、本当のことなのか? アガーテ?」
金髪というよりは、薄茶の長い髪を揺らして、そう聞いたものだ。その声は、誰もいない教会堂の中で、怪しくくぐもった。屋根裏の隅で、巣を張っていた蜘蛛が、何かに怯えて逃げ出す。
「本当よ、昨日、いきなり旅立つって」
「しかし、競技大会を目前に控えて ――――」
「どうやら、延期されるらしいよ」
「すると、それを知ってのことか?」
「それはわからないけど ――――」
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『魔弾の射手 11』
「アガーテ、僕は、フランスに行かなくては ―――――」
アガーテは、カスパールの口が何のために動いたのか、とっさには理解できずにいた。しかし、それは彼自身も同様だった。どうして、自分の口が、そのように動いたのかわからない。あたかも、何ものかに憑依され、意識の外によって、動かされているようだ続きはクリック
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『小説、備忘録』
『備忘録 序章』
少女にとって、新幹線に乗るのは、その日がはじめてだった。そして、本国においては、名古屋よりも東に行くのも、はじめだった。
しかし、彼女の家が、子どもを旅行に連れていけないくらい生活に窮しているわけではない。
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『備忘録 1』
内海一枝が新幹線に乗る一週間前に、時間を遡ってみよう。
ここは、栗ヶ丘第三中学校、2年2組。すなわち、一枝が9日後に、足を踏み入れることになる教室である。
「おい!新しい転入生が来るそうだ!何でも女の子らしい!このクラスの女子は、救いがないからな、一人でもマトモなのが欲しいよ」
「オマエのために、女子がいるわけじゃないわよ」
井口榮は、今、入室した男子に注文をつけた。
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『備忘録 2』
内海一枝が、教室に足を踏み入れたのは、4月13日のことである。2年2組のプラカードを見たとき、何か不安を感じたとすれば、それはおそらく、彼女の用心深い性格によるものだろう。あるいは第六感的な、感覚が働いたのかもしれない。
もちろん、一枝のあずかり知らぬことだが、クラスメートは一様に、緊張していた。出走直前の短距離選手のように、全身の筋肉が強張っていた。
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『備忘録 3』
一枝の言葉に同意する詩織。
――――何ていうことを言ってしまったのか。もう、後には戻れない。
まるでドミノ倒しのように、一枚目が倒れると、最後の一枚が倒れるまで終わらないものか。
もはや、一枝も数あるドミノの一枚に過ぎない。この教室に入った時点で、その一部に組み込まれてしまった。そして、今、倒れつつあるドミノ。ならば、自分は、どこにいくのだろう。いや、行かされるのだろう。
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『備忘録 4』
その夜、一枝は、ほとんど、眠れなかった。携帯を摑んだまま、ベッドにダイブしたはいいが。まったく、セイレーンはやってきれくれなかった。しかし、少しくらい、彼女はキスぐらいしてくれたかもしれない。とても嫌な夢を見たような気がするのだ。詳しくは憶えていないが ――――――――。
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『備忘録 5』
――――井口さんは来ていない、よかった。
一枝は、詩織と一緒に教室に入って、思った。クラスメートたちは、普段を変わらずに、ある者たちは、罪のない会話に、ある者たちは、読書に、HR前の、空白の時間を潰している。
そうは言っても、彼等について多くを知っているわけではない。なんと言っても、今日で二日目なのだ。一枝は、周囲の者たちに、軽く挨拶すると、席に着こうとした。その時、教室の空気が絶対零度にまで落ち込んだ。毛穴が、その寒気のせいで、爬虫類のようになった。
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『備忘録 6』
当然のことだが、首輪が嵌るとき、音がするにちがいない。ただし、その音は微少であって、本人はおろか、まじかにいる人間の耳にもそう届くものではないだろう。
しかし、このとき、一枝の耳には、はっきりと金属と金属が合わさる音が聞こえた。
それは、榮に首輪を填めたのではなくて、自分に填めたのではないか。そんな思いに囚われた。
自分がこの教室に、見えない鎖で括り付けられたような錯覚に陥ったのである。
そのせいで、微動だにできない。自分が犯した罪から逃れられない。
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『備忘録 7』
「ああ・・・・・・・・・・」
一枝は、一人、トイレの個室で震えていた。右手を睨み付けている。
―――本当にこの手がやったんだろうか? あのおぞましい行為を!
昼休みに行った自分の行為を、少女は思い出したくなかった。自分があのような行為をやったということを信じたくなかった。悪霊や悪魔とやらが、自分に憑依して、勝手にやったのだと思いたかった。
しかし、もはや彼女がやったことには変わりはない。たとえ、あの時のクラスの空気が、彼女に命じたとしても、それは言い訳にはならないだろう。
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『備忘録 8』
「お帰りなさい、榮、あらお友達なの?はじめてお会いするわね」
とても上品な物言いが、一枝の耳に心地よい。
榮の母親は、外見は彼女にそっくりだが、その内面からは違う匂いが漂ってくる。そえからは、自尊心や気位の高さというものは、感じられない。
もっとも、それは第一印象であって、道々、接していた彼女は、必ずしもその二つにマッチしているとはいえなかった。
しかし、それを芝居であると疑っている一枝からすれば、一概に否定もできないのだった。まるで、狐に包まれたような心持ちで、玄関に入る。
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『備忘録 9』
肩をふいに、抱かれて、一枝は驚きを隠さなかった。しかし、それはけっして、嫌な感覚ではなかった。伝わってくる温かな人肌の感覚は、何やら母親のそれに似ていたからだ。
「さ、榮さん・・・・・・・・・」
そのぬくもりは何処か、湿度を帯びていた。それは、彼女の涙がそうさせるものか。
「ねえ、かずちゃん、私、みんなが、言うような人間だと思う?」
「・・・・・・・・・」
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『備忘録 10』
―――妹と同じ呼び方とは、どう考えてもおかしいではないか。
当然のごとく、一枝は本能的にそう思った。疑義の目を、榮に向ける。しかし、そんなこと、意に介さないといった風に、一枝を自室へと誘う。
「あれは妹なの」
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『備忘録 11』
夕食、入浴と泊りがけというテーマに不可欠なメニューを無難にこなしていく。その間、この家について、そして、榮について、暗に探りを入れたが、有益な情報を得ることはできなかった。なぜならば、当の本人が常にそばにいたからである。緊張しているのが、自分の手を観ればわかる。ステーキを切り分けるフォークが、小刻みに揺れていた。
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『備忘録 12』
一枝と榮は、同じ寝具で休んでいる。二人は、並んでいるのだが、その姿は、さながら絵皿に並べられた海老フライのようだ。
しかし、両者の間には微妙な距離が存在した。ちょうど、榮が一枝を追うように見える。一枝にその気はないのだが、いささか逃げ腰に見えるのは、どういうわけだろう。その一枝は、何か、そこはかとない臭いをかぎ取っていた。
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『備忘録 13』
一枝は、榮の目の前で泣くことはできなかった。彼女の思いに気を取られていたのである。その大きさと深さに圧倒されていたのである。
しかし、何とか彼女にコンタクトを取ろうとはしていた。その思いに解答を与えることはできなくても、一緒に考えることぐらいは、可能ではないか。そう思っていた。
あるいは、榮に楽しい気持ちでいてほしいとの思っていた。せめて、自分といる時間ぐらいは、笑っていてほしい。たとえ、それが仮初めの姿であったとしても、そうあってほしい。そこには、あるていど自己満足も含まれているかもしれない。
榮が悲しむのを見るのは、とてもつらいことだったから。いや、誰が悲しんでいても、それは自動的に、一枝に伝わってしまう。それを自分の優しさであると誤解しなかっただけ、彼女は偽善から自由だったとも言える。
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しかし、何とか彼女にコンタクトを取ろうとはしていた。その思いに解答を与えることはできなくても、一緒に考えることぐらいは、可能ではないか。そう思っていた。
あるいは、榮に楽しい気持ちでいてほしいとの思っていた。せめて、自分といる時間ぐらいは、笑っていてほしい。たとえ、それが仮初めの姿であったとしても、そうあってほしい。そこには、あるていど自己満足も含まれているかもしれない。
榮が悲しむのを見るのは、とてもつらいことだった。いや、誰が悲しんでいても、同じ気持ちになるのだが、榮に対するきもちは何処か、微妙にちがう。
しかし、これ以上彼女に係わることに対して、一定の怖れもある。
それは自動的に、一枝に伝わってしまう。だから、ムリに既成の表情をつくる。それを自分の優しさであると誤解しなかっただけ、彼女は偽善から自由だったとも言える。
朝の予定は特に決めていなかった。前夜は、すでに記述したとおりだった。とても、二人でウキウキと翌日の予定を考えるどころではなかった。決して、楽しい修学旅行ではないのだ。
二人は、朝日に黄金にされながらキッチンに入った。まだ早朝だったので、先客はいない。
「フレンチトースト食べる? かずちゃん」
「え、料理するんだ、榮さ・・・・ちゃん」
言い直したことを大目に見たのかと、榮は何もなかったかのように、再び口を開いた。
「どう? お口に合うのかわからないけど・・・・・」
「わかったわ、いただくわ」
どことなくぎこちなさが残るが、朝日に嫌なきもちをすべからく掃除してもらうことにした。一枝は昨日の夜のことが頭から消えずに、煩悶していた。さすがに、一睡して薄れてはいるが、どこか、生々しい記憶として残存している。それは、表現しがたい気持ち悪さとなって、新しい朝を楽しむのを妨害してくる。
その気分をいくらなりとも、消してくれたのは榮の妹だった。
「榮姉さん、かずちゃん、おはよう」
「かずちゃん!」
榮が語気を強めると、彼女は萎縮して一歩下がった。無邪気な小学生の顔が、消え去って、残ったのはすまなそうに姉と一枝を見比べる顔だけだ。
「別にいいのよ、かずちゃん」
他人にそう呼ぶのは、とかく気持ちが悪い。しかし、ほかに呼称がない。赤いTシャツにかすかだが、胸のふくらみが認められる。それによって、ゆがんだ「Rose boys」の文字が一枝には、自分へとメッセージに思えた。
「甘やかさないで、かずちゃん。ねえ、かずちゃん、年上に向かって失礼でしょう? 言い直しなさい」
同じ名前で他人を呼ばれる奇妙さ。しかし、そんなことよりも気になることがあった。
当然だが、教室での彼女とは打って変わった態度に唖然となる。
「榮ちゃん、良いって・・・・・」
「これからは、かずさんって呼びなさいね」
「うん、わかった」
すごすごとキッチンを後にしようとする。そんな妹に、さすがに悪いと思ったのか榮は、声にやさしさを帯びさせた。
「かずちゃん、言い過ぎたわ、ごめんね」
「ううん、悪いのはかずだから」
どうやら、榊家の次女は自分のことを名前で呼ぶ癖があるらしい。ちなみにそれは、一枝の家では許されない。幼稚園のころ、厳しくしつけられたものだ。当時の記憶が残っているということは、よほど厳しかったということだ。
少女は、すまなそうに一枝に謝罪すると、自分の朝食を作り始めた。彼女の分も、作ってあげればいいと思っていると、フレンチトーストの甘いにおいが漂ってきた。榮は相当に手馴れた手つきでフライパンを操作している。すでに一発の主婦という風格さえ見受けられた。
「かずちゃん、あんたの分も作ってあげようか?」
「うん!」
Rose boysの少女は元気よく答えた。一枝の胸に安堵が蘇る。よかった、本当はなかのいい姉妹なんだ。自分の家のそれとはまた違った関係を興味深いと思った。この家では、まるで姉妹ではなくて、兄妹の関係のように映る。榮は、この少女のことをもっと知りたくなった。
「ねえ、かずちゃん」
「なあに、かずさん」
少女は瞳の奥に、きらきらしたオレンジを一個忍ばせていた。
「その文字、どんな意味かわかる?」
「どの文字?」
「Tシャツの文字よ、英語」
「かずは、まだしょうがくせいよ」
少女は、半ば抗議するような声を出した。
――――え?演技?
ふと、ドラマの中で発見した子役アイドルを思い浮かべた。その子は、加藤なんとかという名前だったのだが、詳しい名前は憶えていない。ただ、犬か猫につけるような、とても人間に命名するような代物ではなかったことだけは事実だ。
その少女の演技が、ちょうど『かずちゃん』に酷似していたのだ。いかにも演技というような演技が、それだった。しかしながら、メディアによると天才子役として売り出されているらしい。大人たちというものは、えげつないと一枝は思った。金の実がなるところ、何処にでも出没する。
しかし、この時一枝が深刻に考えたのはそんなことではない。少女の所作を演技だと思ったことである。事もあろうに、クラスと関係ない人物にまで、自分の疑いを演繹していたのだ。まるで枯れ草に投じられた炎だ。一体、何処まで広がっていくのだろう。その冷たい炎は、一枝の心胆を寒からしめた。
今まで、育ってきた境遇は一枝にとって、他人を疑う必要がなかった。だから、自然と人を疑うようなことはないように、育ってきた。それが、わずか数日で変容しようとしているのだ。彼女じしん、気づかないうちにそれが起こりつつある。ただ戦慄を以て、それを迎えるしかない。
「どうしたの? かずちゃん、できたよ」
「ア・・・うん」
気が付くと目の前に、料理が存在している。一枝が嗅覚を発動するまでもなく、美味しそうな匂いを発している。
フレンチトースト。
卵の黄色が際だつ視覚効果は、少女の食欲を刺激する。
「よかったら、レモンと蜂蜜をかけて食べてね」
榮の言葉は、朝食に心地よいスパイスとなった。先ほどまで、頭を悩ませていた問題を何処かへと追放して、ナイフとフォークを剣と楯のように構える。まるで中世の騎士の心持ちで、食物に取り組む。
ナイフの入りがいいのは、火加減が適当だからだ。染み込んだレモン汁とはちみつが噴き出てくる。それが卵と絡んで、甘酸っぱい匂いを提供する。それを逃さないように、しかる後に、口へと運び込む。すると、舌は溶けそうになるあまり、苦笑の汗を流したくらいだ。しかし、彼の主人はただ美味を楽しく味わっていただけだった。それには、かなりの割合で、榮への情が入り込んでいたはずである。
「美味しいよ、榮ちゃん、すごいね、こんなに美味しい料理ができるなんて」
「料理って言っても、フレンチトーストだし、これはママの受け売りなのよ。ふふ、かずちゃん、そんなに卑しそうな顔しなくてもいいでしょう。すぐに作ってあげるから!」
少女は、一枝の口元を睨みつけて微動だにしない。それを榮はからかったのだ。し
かし、彼女の両手は、二枚目のトーストを作るべく、しこたま動いているのだが・・・・・・。
一枝は、あまりに美味なあまり、少女の視線に気づいていなかったが、3口目を放り込んだところで、それに気づいて気まずい笑顔を作った。
「ごめんね、かずちゃん」
自分の名前で他人を呼ぶのは、ほんとうに不思議な感覚だ。しかし、いつのまにか慣れてしまったようだ。もちろん、喉に引っかかった魚の小骨のような多少もどかしい思いは残っている。
そのような一枝の煩悶は、しかし、この家庭の朝になんら影響を与えることはない。すぐに新声が聞かれた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます、お世話になっています」
入ってきたのは、30代後半くらいの男性だった。見立てから、榮たちの父親であることが、十分に予想される。
一枝が源之助に出会ったのは、これが始めてのことだ。
昔風に言えば、榊家の当主は、トレーシングペーパーばりに薄い印象しか、少女に与えなかった。今どき、珍しい和服姿がややセピア色に焦げ付いているだけである。しかも、首から上はまったく記憶に残っていない。その源之助は、着席するなり新聞を広げた。
「エッフェル塔、崩落! アルジェリアのテロか?」
一枝の目に、飛び込んできた文字は、一般的に言えば衝撃的なニュースだろうが、彼女にしてみれば印象的でもセンセーショナルでもなかった。言うなれば、隣町の鉄塔が倒れたていどのことだ。遠い国の、文化的な象徴が崩れたことで、普通の中学二年生にたいした影響を与えるということはない。
「咲枝は、どうした? まだ起きてこないのか」
それぞれ、着席して栄養補給をはじめた姉妹に、語りかける。新聞ごしに語りかけるその姿は、さながら覆面男のようであり、文字通り姉妹にとって影の薄い存在のように、一枝は思った。
――この人はどういう仕事をしているんだろう。
このていどの興味は抱いたが、それを直に聞いてみようという意欲は浮かんでこない。一枝は、不思議な空気をかみ砕くように食物を運ぶ。
「榮、朝からナイフとフォークとは豪勢だな」
「うん」
榮の返事も心許ない。何処か、義務感で答えてやっているという感じを拭えない。
それにしてもこの人は、何時帰宅してきたのだろうか。一晩中、この家にいたはずだが、まったくそんな記憶がない。キッチンに入ってきたときも、まったく無音だった。そして、空気のような手つきでパンを焼くと、これまた、魚が餌を呑みこむときのように、何の緩衝も周囲に与えずに、食事を終える。 そして、風のように消えていった。残ったのは、しわくちゃになった新聞だけである。エッフェル塔とテロという文字が虚しく主張していた。
「オレは、この家の当主なり。客人、くれぐれも忘るるにあらず!」とも、しわくちゃの文字は見えた。も
ちろん、その声も台詞の内容に、比例して雄大ということはなかった。
それは、自分の父親を何処か思わせるようにも思えた。しかし、よく考えてみれば、自分は父親を尊敬しているし、その存在を空気に思うこともない。
―――それにしても、今、どうしているかな?
矛盾する思いを脳裏に住まわせていると、キッチンに新しい足を見ることになった。源之助が姿を消して、やっと咲枝が姿を見せたのである。
「ママ、おはよう」
「おはよう」
榮姉妹は、源之助に対する態度とは裏腹に、健康的で大きな声が響き渡る。
一枝は、榊家を観察しながら奇妙なきもちを味わっていた。演技を見せられているという感じが、再びがま首を擡げてきたのである。
「榮姉さん、今日どうするの?」
「まだ、考えていない、どうしようかな」
「あなたたち、3人で何処かに遊びにいけばいいじゃない。どうせ休みだし」
母娘の会話を聞いていながら、あたかも、自分は透明人間のような心持ちだった。しかし、次の瞬間、それは崩壊することになる。
しかし、両者の間には微妙な距離が存在した。ちょうど、榮が一枝を追うように見える。一枝にその気はないのだが、いささか逃げ腰に見えるのは、どういうわけだろう。その一枝は、何か、そこはかとない臭いをかぎ取っていた。
――――牛乳?
そのにおいを表現するとすればまさに、その一言に尽きる。まるで恋人同士のような距離だけが、両者の間にあった。相手は、けっして不快だったり、憎いと思ったことはなかった。
牛乳臭いというのは、それが腐った臭いではなく、生乳の酸味を特化させて、表現したということにすぎない。
牛乳やら酸味やらが、何を暗示しているのか。
もしかしたら、体験したことのない圧迫感が、一枝にそう表現させたのかもしれない。
鼻と口を交互に圧迫させられる。その手の主は、夜の精か、はたまた、榮自身だろうか。おそらく前者だと思われる。榮にしろ、一枝にしろ舞台上の女優にすぎない。やるべきことは、他人の書いた台本に忠実に従うことだけだ。
当然のごとく、語るべき台詞も舞台も、女優の思うようにはならない。華やかな舞台の背後には、誰かが隠れている。彼らは、シナリオライターだか、監督だがわからないが、黒幕とでも表すべき人間なのだ。
もしも、女優が舞台裏のことを一切知られずに、芝居をさせられているとしたらどうだろう。ある日、顔のない男から台本を渡され、この通りに芝居をするように命令されるのだ。
そのような芝居があるとしたら、かなり悪質と言わねばならない。
もっと、怖ろしい状況がある。
自分が置かれている状況がすべて芝居にすぎないのに、それを知らされていないとしたら、あるいは、気づいていないとしれば、どうだろう。この世にこれほど悪質な冗談は他に例がない。
今、二人が置かれている状況は、まさに悪質な舞台に仮定することができる。すると、客は何処にいるのだろうか。拍手のひとつすら聞こえない。一体、どこに隠れているというのだろう。もしも、客電が点灯したら、彼らの姿が見えるとでもいうのか。あるいは、完全な空室ということもあり得るかもしれない。
リハーサルでもあるまいし、黒幕も客もいない演劇などと、虚しい限りだ。
「かずちゃん、起きているの」
「うん・・・・・」
一枝は短く答えた。彼女が醸し出す圧迫感は、過ぎた母性のそれに似ている。異様に乳臭い。それは、彼女が身長にして10センチもちがうということとは、まったく関係がないだろう。
「私ね、ワタシね・・・・・」
榮の声は、夜の闇にくぐもっている。光度が低いと、音の伝達に影響を与えるのだろうか。中学の理科ではまだ習っていないが、上級学校では、習うことがあるかもしれない。その発想は、眉村卓の発想法に似ていた。
―――彼はまだ生きていたんだっけ。
彼女が妄想の触手を伸ばしたのが、そのような屈託のない内容だったのは、小さな現実逃避があったのかもしれない。
「ワタシね・・・・・・・」
やがて、くぐもった声は、涙で濡れているのだと知れた。榮は、何か見えないモノに確認するかのような物言いを続ける。それは、ブルドーザーで一輪の花を堀り出すことに似ている。腕の使い方ひとつで、壊してしまいそうな、そういうイメージである。
一枝は、それを理解していた。だから、黙っていた。今夜は彼女の好きにさせてあげようと決意した。もしも、どんな小さなことでも、彼女の要求を拒絶したら、すぐにでも死んでしまいそうに思えたのだ。
「ワタシね・・・・・・・」
「!?」
その瞬間、榮の手が一枝の背中を捕らえた。正確を期すならば、キャミソールの生地を握ったと表現すべきである。しかし、一枝にしてみれば、背中の皮膚ごと奪い取られることとほぼ同じだった。
榮が摑んだのは生地だけであり、肉体にその長い爪が達することはなかった。
しかし、恐怖や不安は苦痛を増幅するということもある。柔らかなキャミソールの刺激は、何も見えない闇の中では、より深刻な痛みに変化していた。
言い換えれば、躰の一部をかみ切られるような衝撃ということだ。喚きたい衝動を抑えることができたのは、理性の働きというよりは共演者に対する友情とでもいうべきだろう。
「う?!」
しかし、榮に右手首を摑まれたとき、思わず鈍い吐息をたてずにはいられなかった。彼女の手は群青色に変色していた。
「ご、ごめんね・・・・・」
「さ、榮さん・・・・・」
榮は、すぐに手を離した。一枝は、彼女のそのような態度に罪悪感すら憶えた。だから、改めて寝具のなかで身体を回転させて榮と向き合ってみた。互いの目の奥には、一体、何が見えたのだろう。それは同じ内容だったのだろうか。それとも別の世界を希求していたのだろうか。
「か、かずちゃん・・・・!?」
榮はまぶしそうな素振りで、視線をそらさざるを得なかった。
今度は、一枝が榮を追うような姿勢になった。
「うう・う・・う・うううう!!」
「榮さん・・・・・」
一枝はそっと、榮の背中に右手を押し当てた。その冷たい感触に、少女は言葉を詰まらせた。まるで、吹雪の中を何時間もさまよったかのように、冷たい。掌が凍り付いてしまいそうだ。
榮は、彼女よりも10センチも背が高い。それにも係わらず、肩と胴を丸めたその姿は、小学生の妹よりも小さく見えた。この時、少女は自分が痛みを感じるほどに、榮に感情移入していた。
もはや、彼女が演技をして、自分を騙しているなどという思想は稀少だ。一枝の心を支配しているのは、苦しんでいる人間に対する無条件のきもちだ。ここで言っておきたいのは、憐憫や同情ではないということである。
一枝は、並々ならぬきもちを目の前の友人に向けて放っていた。しかし、榮はそれを正面から受け止めることができなかった ――――少なくとも、一枝にはそう見えた。
だから、まだ目を背けて、泣きじゃくるばかりだ。外に声が漏れるのを怖れて、必死に押さえはしたが、どうにもならない感情が全身から、吹き漏れるのを押さえきれないように見えた。
「ワタシね、あなただけには信じてほしいの、嫌われたくないの ――――」
―――だけという言い回しが、一枝の心の琴線に触れた。そして、奏でられた音曲は、少女の心をこれまで体験したことのない快感を提供した。
「分かったわよ、みんなに言って止めさせよう」
「ウウ・ウ・・ウ、だめよ、それはだめ!!」
榮はしかし、泣きながらも一枝を制した。
この時、一枝は情けない気持ちになった。心の何処かで、それを後悔していたからだ。だから、榮の制止を心の何処かで歓迎した。――――どうして、不健康な考えだろう。
他と手、一ミクロンでもそのようなきもちはあってはならない。それは、少女が持つ清潔感からは何万光年も離れている。
止めど止めもなくあふれてくる罪悪感を制御しながら、榮を抱きしめた。彼女は涙を外に出せばいいが、一枝は自分の胎内へとそれを流し込まなければならない。ここで、観客の同情を受けるべきは榮であって、一枝であろうはずはない ――――え? 観客って誰かしら? 私は、まだ誰かの視線を気にしているの?
おおよそ中学生らしくない感慨を漏らしながらも、自分の顎の下で起こる衝動を緩和させなければならない。彼女が内面に持つ、プラスのエネルギーで、榮が抱いている傷を緩和させるのだ。
「かずちゃんまで、いじめられちゃう」
「それなら、ご両親に・・・・・」
「そんなのだめよ!」
そこまで言って制止されたのは、中途ですべてを悟られたからだと、思った。
「榮さん・・・・・・」
「お願い、友だちならそんな風に呼ばないで・・・」
懇願するような目つきは、夜の闇にあっても、はっきりとわかった。
「じゃあ、榮ちゃん」
自分で言ってみて、ぎごちなさを改めて味わった。
「うん、うん、かずちゃん」
なんども頭を下げるその姿は、自分が得た果実を確かめているのか。あるいは受け取ったコインを数える両替商のようにも見える。
「二人でいるときだけ、こんな風にしてくれたらいいの」
涙で濡れた榮の声は、あきらかに何かを訴えていた。それが、救いを求めていることは、明かだが、実際はそう単純ではないと思えるのだ。言葉の森の向こうに、見え隠れしているのは、プライドの草むらだ。そこには、凛とした緑が刃先を競っている。それが見えるからこそ、単純な対応は彼女の大事な部分を損ねてしまうと危惧しているのだ。
「わかった・・・・・」
ごく短い答えは、熟慮の上に熟慮を重ねた結果だった。
「・・・・・・・・」
榮は、一枝の言葉に安心すると安心をむさぼるように、寝入ってしまった。その姿は、さながら泣き疲れて寝てしまう幼児にも見えた。あるいは、後顧の憂いが無くなって、安心して死にゆく老人にも似ていた。そして、このまま寝入って起きることがないのではないかと、理由のない心配に身を焦がすのだった。
一枝は母親がそうするように、寝入る少女の頬や額を撫でてみる。彼女の手によって、かき分けられる髪は、平安時代の価値観に合致するように、艶やかで鈍い輝きを放っている。その美には、まったく嘘というものが感じられない。
―――しかし・・・・・・。
ここにきても、一枝は自分以外のクラスメートはすべて、俳優や女優ではないかという疑念を捨てきれない。榮の悲愴な訴えを目の当たりにしても、それは残る。ひとつでも生き残れば、いくらでも復活するガン細胞を彷彿とさせた。少女の心のなかで、それはけっして、ゼロになることはない。どれほど、榮の演技 ―――それはあくまでも仮定にすぎないが、真に迫っていたとしても、摩滅することが不可能なのだった。どんなに、それを願ったとしても榮を信じたいと思っても、疑念はガン細胞となって宿主を苦しめる。
この懇願も嘘ではないか。その涙は、目薬にすぎないのではないか。もちろん、言葉では伊倉でも嘘は可能だろうが、目薬は不可能だ。あるいは、布団の下に空容器が隠されているのだろうか。
―――ああ、やだ! どうして、こんな風に感じるの!? 私って何て醜いんだろう。
すると、罪悪感と自責の念が、がま首を擡げるである。まさに煩悶である。108の煩悩のように罪人にまとわりついてくる。この場合の罪人のとは、すべての人間をいみする。当然のことながら、一枝も逃れられない煉獄である
―――ああ、なんてキレイなんだろう。これほどまでならば、騙されてもいいかも。
一枝は思いあまって、こんなことを考えていた。
彼女が今すべきことは、できるだけ泣いておくことだけだった。何があっても、榮の前で涙を流すことは許されないと思う。それは、置かれている状況の虚実にかかわらず、護るべき定石に違いなかった。




